ウィーン生まれのE.H.ゴンブリッチ(1909~2001)はロンドンのウォーバーグ研究所で活動した。1950年の刊行以来の世界的ロング・セラー『美術の物語』が示すように、その関心は専門のイタリア・ルネサンスを超えて西洋美術の歴史全体に及んでいる。
美術研究に知覚心理学を導入した功績でも知られ、芸術学や歴史哲学の見地からの著作も多い。これらの著作の日本語訳は、残念ながら長らく絶版となっていたが、本書はその1冊の復刊である。
第1章「古典主義からプリミティヴィズムへ」 イタリア16世紀のヴァザーリは、14世紀から彼の時代までの美術には、素朴でぎこちない人体表現から写実的かつ理想化された人体表現へという「進歩」が認められるという観点で、有名な『美術家列伝』を執筆した。確かに、写実的かつ理想化された人体表現という特定の課題に対する漸進的な解決という意味に限定すれば、芸術にも「進歩」はあるのだから、芸術の進歩を一律に否定するのが「進歩的」芸術観だという現代の風潮には再考の余地がある、と著者は指摘する。そして、ルネサンスにはヴァザーリが、18世紀にはドイツのヴィンケルマンが、それぞれルネサンスと古代ギリシアの美術の歩みを「進歩」として記述したことを再確認する。ただ、彼らは進歩の行く末に懸念を抱いていた。そして、ヴィンケルマンが古代ギリシア美術の古典的完成の彼方に頽廃を予感したことには、対抗策としての「プリミティヴな美術」への回帰が含意されていた。そのため、「古典主義」の代表者ヴィンケルマンは、図らずも、それまで未熟として軽視されていたプリミティヴな美術(14、15世紀のイタリアやフランドルの美術)への関心、つまりプリミティヴィズムに先鞭をつけたのである。
第2章「ロマン主義からモダニズムへ」 プリミティヴィズムが台頭した19世紀初頭のロマン主義から20世紀初頭の表現主義まで、美術界の動向はわずか1世紀のあいだに急速に変化した。科学技術の目覚ましい進歩は、人々に芸術の領域でも同様の進歩を期待させた。伝統的には過去の芸術が尊重されてきたが、19世紀以来、未来の芸術が重視されるモダニズムの風潮が起こり、次々に新しい「~主義」が登場しては前のものと交代する。そのため、すべてが相対化され、芸術家や芸術作品の価値は、未来の芸術に向かう「進歩」への貢献度だけによって測られて、貢献度が低いと見なされれば美術史記述から省かれた。ゴンブリッチは、「進歩」が目的化したことにモダニズムの時代の問題の本質を見ている。
本書の原著(ドイツ語、1978年)には、その時点までの著作目録が付いていた。本訳書の旧版(中央公論美術出版、1991年)でも目録は増補されたが、アートワークス版には、没後に刊行されたThe Preference for the Primitive, 2002を含む、著者の生涯の仕事が一覧できる著作目録を新たに編纂して加えた。この目録を見るだけでも、ゴンブリッチの関心の広がりと一貫性とを共に感知することができよう。そして、本書で論じられた「プリミティヴ」の問題がゴンブリッチ終生の主要関心事の一つであったことは、遺作が『プリミティヴなものへの偏愛』だったことにも明らかである。

